少女は開け放った窓の枠に身を乗り出して、今再来したばかりの太陽を眩しげに見つめていた。
朝露に封じ込められていたラベンダーの薫りが、どこからということもなく漂ってくる。
「夏が来るのね」
わざと大人びた風情でひとり呟いてみて、その可笑しさにくすくす笑ってみる。
微かな風にさらさらとそよぐ、黄金とも白銀ともつかぬ色の髪。表情豊かな、紫紺の瞳。
周囲を振り回しもするが、どこか憎めない愛らしさと茶目っ気を持って生まれてきた、そんな娘だ。
段々と熱量を増していく初夏の光翼が空いっぱいに広がっていくのを眺めていた少女は、階下から流れてくるあたたかなメープルシロップの香りに我に返った。
こう見えて彼女はまだ少し寝ぼけていたのである。
こうしちゃいられないわ。
今日は絶対に一番に行って、いい場所を陣取ってやるんだから。
ベッドの上へネグリジェを脱ぎ捨てると、焦げ茶色のワンピースに着替えて螺旋階段を駆け降りる。
「母さま、おはよう!」
ダイニングに入っていくと、ゆったりとしたパンツに包まれた長い脚が見えた。
カフェカーテンの向こうで、すらりとした細身の女性が振り向く。少女の母親だ。
「おはよう、アンリ」
涼しげな切れ長の眸に微笑まれると、少女はいつもこの上ない幸福を覚える。
彼女の好きなパンペルデュに、ターンオーバーのベーコンエッグ、そしてゴルゴンゾーラソースがかかったルッコラのサラダとあたたかい紅茶とを全て胃袋へと片付けて、皿をシンクへ運び、洗い桶に張られた洗剤液の中に浸す。
朝の仕事を終えるや否や、そして「ごちそうさまでした」と言い終わるより早く駆け出した少女を、玄関で追い付いた母親の声が止めた。
「待って」
外見と同じ、硬質で玲瓏な声。簡潔な言葉。
他人の中には、それを恐ろしいとか、冷たいと感じる者も多いらしい。
表面上は、確かにそうなのかも知れない。
だがその中にあるあたたかな感情を、そして伸びてくるのが慈愛に充ちた手であることを、知っている少女にとっては、それが彼女の愛する母親の声だという、そういった認識でしかない。
母親は用意しておいたらしいブラシで、肩を少し超えたばかりの少女の髪を、毛先から手早く梳いた。
梳かし終えた、潔癖な程にまっすぐな髪を、指先で撫でる。
彼女達の髪は、まったく同じ質と言って差し支えないほどに似ていた。ただ母親のほうは、腰まで伸ばした艶のある銀髪をいつも美しく結い上げている。
その姿に、少女は心底憧れていた。
仕事で白衣をまとっている時も、父親と二人でキモノを着る時も、そしてこうしてオフの日にルームウェアでいる時でさえ、母は美しかった。
少女はまだ、髪さえ伸ばせばあんな風になれる、と信じている。
実際、美しい女性に成長する要素は多分にあるが、母親と同じ様になれるかどうかは、髪とは別のところに問題がある。
彼女が憧れる凜とした美しさは、過去の激しい戦争の中、数多の死と嘆きと怒りとのただ中で、それらと共にのたうちまわるうちに培われたものだからだ。
そのことを少女は知らず、戦争のことすらも、よくは知らない。
そして、それでいいのだと両親が思っていることも。
母親は少し首を傾けて、少女の髪を撫でながら頭にキスを落とした。
「髪、父さまに似れば良かったのにね」
いつもほんの少し残念そうな顔で言われる度、少女は自分の髪が柔らかく波打っている様を想像してみる。
「そうね母さま、それはそれで悪くない。でも、これはこれで、あたしは大好きなの」
にっこりと笑うと、少女は両親の知識と経験とを総動員してつくられた竹竿と、使い込まれたブリキのバケツを持って駆け出した。
「いってらっしゃい、アンリ」
もはや聞こえる筈もない言葉を、丘を駆け上がっていく小さな背中に囁いて、母親は微笑んだ。
出し抜けに後ろから、ひどく眠たげな声がかけられる。
「おはよ…」
母親はそちらを見もせず、だがあたたかな声で応える。
「まだ寝ていていいぞ。夜勤明けだろ」
言われて彼―少女の父親―は、どうかすると閉じようとする目を緩慢に擦った。
「いや、せめて朝メシくらいは一緒にと思ったんだけど……なあ、女の子ってのはああいうものなのか?」
多分、竹竿とバケツのことを言っているのだ。
母親は自分の幼い頃を思い返して、複雑な苦笑いを浮かべた。
「あんなものだろう。……まあ、早熟って意味じゃ、少し度が過ぎる気もするが」
父親は、はあ、と呆けたように頷いた。
「そういう点は、あれでまだ8歳ってのが恐ろしいな…」
「…すぐに嫁に行ってしまうかも知れないな」
言葉に混じった若干の淋しさに気付いて、父親は隣に立つ妻を見た。2人でいる時は昔のような物言いに戻る人の、その肩を抱き寄せる。
「イザーク」
「ん?」
「愛してる」
囁かれた言葉に彼女は一瞬目をまろくしたが、
「…私もだ」
同じ声音でそう囁いて、愛する夫の肩に頭を寄せたのだった。
なおその日の夕食にはアンリが釣ってきた(小さめの)ニジマス5匹が供されたことを、余談ではあるが彼女の名誉の為に記しておく。